マチュー・ブレイジーとCHANEL
ロゴではなく、素材と身体でメゾンを更新できるのか
CHANELにマチュー・ブレイジーが入ったことは、単なるクリエイティブ・ディレクター交代ではありません。近年のラグジュアリー全体で進んでいる、かなり大きな問いと重なっています。
ブランドは、アイコンを守るだけで未来へ進めるのか。歴史あるメゾンは、どこまで変わるべきなのか。そしてCHANELほど強いコードを持つブランドに、新しいデザイナーは何を足せるのか。
2024年12月、CHANELはマチュー・ブレイジーをファッション部門のアーティスティック・ディレクターに任命し、彼がオートクチュール、プレタポルテ、アクセサリーを含むファッション全体を統括すると発表しました。Virginie Viardが2024年6月に退任してから、業界の視線は長くCHANELの次の一手に集まっていました。
ここでCHANELが選んだのは、派手なスター性よりも、素材とクラフトで服を語れるデザイナーでした。その選択自体が、いまのCHANELの現在地をかなり雄弁に物語っています。
マチュー・ブレイジーとは誰か
静かなクラフトで、ラグジュアリーを現代化してきたデザイナー
マチュー・ブレイジーは、いわゆる分かりやすい“ショーマン型”のデザイナーではありません。彼の経歴は、かなり職人的で、同時に知的です。
Vogueによれば、ブレイジーはLa Cambreを2007年に卒業し、その後Raf Simons、Maison Martin Margiela、Céline、Calvin Kleinで経験を重ね、2020年にBottega Venetaへデザイン・ディレクターとして入り、2021年に同ブランドのクリエイティブ・ディレクターに就任しました。
この経歴で重要なのは、彼が通ってきた場所です。Raf Simonsでは構造と若さの緊張感。Maison Margielaでは再構築や服の裏側への視線。Phoebe Philo期のCélineでは、女性の現実に寄り添うミニマルな知性。Calvin Kleinではアメリカ的な制服性や身体感覚。そしてBottega Venetaでは、ロゴに頼らず、素材と職人技でラグジュアリーを成立させる方法を磨きました。
ブレイジーがCHANELに合うと見られた理由は、ここにあります。CHANELは、ロゴ以上にコードが強いブランドです。ツイード、チェーン、カメリア、キルティング、バイカラーシューズ、コスチュームジュエリー。それらを表面的に並べるだけなら、CHANELは簡単にCHANELらしく見える。ただし、それだけでは新しくならない。
ブレイジーに期待されているのは、CHANELの記号を増やすことではなく、その記号の中にある“作りの理由”をもう一度見せることだと思います。
CHANELの歴史性
このメゾンは、いつも“動く女性”を作ってきた
CHANELの歴史を振り返ると、ただ華やかなブランドというより、女性の身体をどう自由に見せるかを考えてきたメゾンだと分かります。
Gabrielle Chanelは、コルセット的な身体の制約から距離を取り、ジャージーやツイード、スーツ、パンツ、ショルダーバッグといった要素を通じて、女性の装いをより動きやすく、より実用的で、より現代的なものへ変えていきました。The Metは、CHANELのスーツがスポーティな服やメンズウェア、労働着からの影響を受け、1954年の復帰後にメゾンのシグネチャーとして確立されたと説明しています。
ここで大切なのは、CHANELのエレガンスが“飾るためのエレガンス”ではなかったことです。動けること。着る人の身体を縛らないこと。けれど、ラフに見せすぎないこと。このバランスが、CHANELの核にあります。
その後、1983年にKarl LagerfeldがCHANELで最初のコレクションを発表し、Gabrielle Chanelの遺産を現代的に再編集していきます。The Metは、Lagerfeldの1983年の最初のCHANELコレクションについて、創業者の伝統への敬意と、それを現代的な関連性へ更新する能力を示したものとして説明しています。
Lagerfeldがすごかったのは、CHANELのコードを“保存”ではなく“演出”へ変えたことです。ツイードを若返らせ、チェーンを強調し、コスチュームジュエリーを戯画化し、ランウェイそのものを巨大な劇場に変えた。CHANELは彼によって、クラシックなメゾンでありながら、毎シーズン話題を作るブランドへと変わりました。
そして2019年以降、Virginie Viardはその巨大なLagerfeldの後を引き継ぎます。APは、ViardがLagerfeldの死後2019年に後任となり、2024年に退任したこと、CHANELが彼女の功績としてブランドコードの刷新とクリエイティブ・ヘリテージへの敬意を挙げたことを報じています。
Viard期は、Lagerfeld的な大劇場から少し距離を取り、より柔らかく、着やすく、リアルなCHANELへ寄せた時代だったと言えます。一方で、業界内では“話題性”や“強い転換点”を求める声もありました。Guardianは、Viard期が商業的には成功しながらも、Lagerfeld時代ほどの文化的な熱量を獲得しきれていないという見方を紹介しています。
つまり、ブレイジーが引き継ぐCHANELは、非常に強い歴史と商業基盤を持ちながら、同時にもう一度“見たい”と思わせる緊張感を求められていたブランドだったのです。
なぜブレイジーだったのか
CHANELが欲しかったのは、奇抜さより“クラフトの説得力”
CHANELがブレイジーを選んだ理由は、かなり明確です。いまのラグジュアリー市場では、ただロゴやアイコンを強く見せるだけでは、価格の説得力が保ちにくくなっています。
CHANELは2024年に売上が18.7億ドルではなく、正確には187億ドルとなり、前年比4.3%減、営業利益も30%減少したと公式発表しています。一方で同年、同社は過去最高水準の投資を行い、資本支出を増やし、サプライチェーンやブランド体験への投資を続けました。
この状況で必要だったのは、単なるビジュアルの刷新ではありません。価格が上がり、顧客の目が厳しくなり、Quiet Luxury以後の流れで“なぜ高いのか”が問われる中で、CHANELはもう一度、素材、技術、仕立て、クラフトの強さを見せる必要がありました。
ブレイジーは、まさにそこに強いデザイナーです。
Bottega Venetaで彼が評価されたのは、分かりやすいロゴではなく、レザーの扱い、編み、素材の錯視、服の構造によって、ラグジュアリーの密度を見せた点でした。APも、ブレイジーについて、Bottega Venetaでのクラフト重視かつ革新的な仕事、そしてRaf Simons、Maison Margiela、Célineなどでの経験を背景に持つデザイナーとして紹介しています。
CHANELにとって、これはかなり相性が良い。なぜならCHANELの強さは、アイコンが強いだけではなく、アトリエやメティエダール、ツイード、刺繍、羽根細工、金具、ジュエリーといった“作りの集積”にあるからです。
実際、CHANELのMétiers d’artは2002年から続く年次コレクションで、メゾンの制作に関わる職人技を称える場として位置づけられています。CHANEL公式は、2026年のMétiers d’artコレクションをブレイジーの初の同ラインとして紹介し、このコレクションがMaisons d’art of the artisansたちへの賛辞であると説明しています。
ブレイジーがCHANELでやるべきことは、ロゴを大きくすることではなく、CHANELがもともと持っている“手の仕事”を、今の空気で見せ直すことなのだと思います。
デビュー以降に見えた方向性
ショーマンシップの復活と、少し人間味のあるCHANEL
ブレイジーのCHANELデビューは、かなり高い注目を集めました。APは、彼の2026年春夏デビューショーを、惑星が浮かぶ空間演出のもとで行われた“ショーマンシップの帰還”として伝え、CHANELが現代へ向けてレガシーを再発明しようとしている重要な瞬間だったと報じています。
ここで注目したいのは、ブレイジーがCHANELをただ静かにしなかったことです。Bottega Venetaでのイメージからすると、もっと控えめでクラフト寄りの初手も想像できました。けれど彼は、CHANELがLagerfeld以降も持っていた“ショーとしての強さ”をきちんと取り戻しに行った。
一方で、彼のCHANELは単なる大掛かりな演出に終わっていません。Guardianは、2026年1月のブレイジーによるCHANELオートクチュールデビューについて、会場演出の幻想性に触れつつ、薄いスーツ、宝石のストラップを持つスリップドレス、デニムのように見せたペイント加工のモスリンなど、クラフトと錯視を組み合わせた表現に注目しています。また、Lesageによる個人的なメッセージや小さなトークンの刺繍が各ルックに組み込まれ、親密さが加えられていたことも伝えています。
遠くから見ればCHANEL。近づくと、素材の違和感や、仕立ての工夫や、個人的な温度がある。
この方向性は、とてもブレイジーらしいと思います。遠くから見ればCHANEL。近づくと、素材の違和感や、仕立ての工夫や、個人的な温度がある。
CHANELはこれまで、あまりにも強いアイコンのブランドでした。だからこそ、今後はそのアイコンの中に“個人の身体”や“触ったときの面白さ”をどれだけ戻せるかが重要になります。ブレイジーの初期の動きは、そこへ向かっているように見えます。
これからのCHANELはどこへ向かうのか
予測されるのは、アイコンの再発明ではなく、質感の再編集
ここから先は予測になります。ただし、ブレイジーの経歴とCHANELの現在地を考えると、いくつかの方向性は比較的はっきり見えます。
まず、ツイードの更新です。CHANELのツイードはあまりにも有名ですが、今後は“ただCHANELらしい素材”としてではなく、より軽く、柔らかく、身体との距離を変える素材として再解釈されていく可能性があります。ブレイジーはBottega Venetaで素材の見え方をずらすことに長けていました。CHANELでも、ツイードをツイードらしく見せるだけでなく、別素材のように見せたり、軽さや動きを強めたりする方向は十分に考えられます。
次に、バッグとアクセサリーの再設計です。CHANELにとってバッグは極めて重要な領域です。2025年の業績でも、CHANEL 25 handbagキャンペーンやファッション部門の勢いが成長要因として言及されています。ブレイジーはBottega Venetaで、バッグを単なる商品ではなく、素材と所作を見せるアイテムとして扱ってきました。CHANELでも、2.55やClassic Flapのような既存アイコンをどう扱うか、新しいバッグをどう立ち上げるかは非常に大きな注目点です。
さらに、メティエダールの重要性は高まるはずです。CHANELは、刺繍、羽根細工、帽子、靴、ジュエリーなど、多くの職人技を抱える非常に特殊なメゾンです。ブレイジーの強みがクラフトの現代化にあるなら、Métiers d’artは彼にとって最も力を発揮しやすい舞台になります。公式に2026年のMétiers d’artがブレイジー初の同ラインとして紹介されていることも、この方向性を象徴しています。
最後に、CHANELの女性像は少し変わる可能性があります。Viard期のCHANELは、柔らかく、リアルで、日常に近い印象がありました。ブレイジー期では、そこにもう少し実験性や、知的な違和感、素材のユーモアが入ってくるかもしれません。APは彼のデビューについて、アンドロジニー、挑発性、エレガンスを通してCHANELのコードを再定義したと評しています。
CHANELが向かう先は、おそらく“若返り”という単純な言葉では足りません。むしろ、CHANELのクラシックを、触感と身体感覚からもう一度作り直す方向だと思います。
なぜ注目度が高いのか
CHANELは、変わりにくいからこそ、変化が大きく見える
CHANELほどコードが強いブランドは、少しの変化でも大きく見えます。ツイードの丈が変わる。バッグのサイズが変わる。チェーンの見せ方が変わる。モデルの歩き方や会場演出が変わる。それだけで、業界は敏感に反応します。
さらに現在のラグジュアリー市場は、決して楽な状況ではありません。2024年にCHANELは売上・利益ともに減少しましたが、2025年には売上193億ドル、前年比2%増、営業利益47.12億ドル、前年比5%増へ戻しています。CHANEL公式は2025年を全事業でポジティブなパフォーマンスだった年として発表しています。
Reutersも、2025年にCHANELが成長へ戻った背景として、ブレイジーのデザインによる需要の高まりや、ファッション部門 of active momentumに触れています。
つまり、ブレイジーのCHANELは、批評的にも、商業的にも、かなり大きな期待を背負っています。彼が成功すれば、CHANELは“守りの老舗”ではなく、“クラフトで再び時代を作るメゾン”として見られる可能性がある。逆に、CHANELの強すぎるコードに飲まれてしまえば、ただ上品な更新で終わってしまう危険もあります。この緊張感こそ、今のCHANELが見られている理由です。
まとめ
ブレイジーのCHANELは、派手な革命より“静かな再発明”になる
マチュー・ブレイジーがCHANELで問われているのは、ブランドをまったく別物にすることではありません。むしろ、別物にできないほど強いブランドを、どう新しく見せるかです。
Gabrielle Chanelが作った自由。Karl Lagerfeldが作った劇場性。Virginie Viardが残した柔らかな日常性。そしてCHANELが抱えてきたアトリエ、メティエダール、ツイード、バッグ、ジュエリーの膨大なコード。
それらを壊すのではなく、素材や身体、クラフトの視点から少しずつ読み替えること。そこに、ブレイジーのCHANELの可能性があります。
今後のCHANELは、おそらく分かりやすいロゴの拡大ではなく、質感の更新、所作の更新、手仕事の見せ方の更新へ向かっていくはずです。ツイードはもっと軽くなるかもしれない。バッグはもっと身体との距離を意識するかもしれない。クチュールはもっと個人的で、親密なものになるかもしれない。
CHANELは、変わらないブランドではありません。変わってもCHANELに見えるほど、コードが強いブランドです。その強さを、ブレイジーがどう扱うのか。いまファッション業界が注目しているのは、まさにそこだと思います。
その変化は、大きな革命というより、
よく見ると分かる質感の更新。
MOODとしてマチュー・ブレイジーのCHANELに惹かれるのは、彼が“新しさ”を大きな声で語るタイプではなく、素材や仕立ての中に静かに潜ませるタイプのデザイナーだからです。
CHANELのように、すでに完成されたコードを持つメゾンでは、何かを足すより、どこを軽くするか、どこに違和感を置くか、どの素材にもう一度手の跡を見せるかが重要になります。
ツイード、チェーン、バッグ、ジュエリー。誰もが知っているCHANELの記号が、ブレイジーの手によって少しだけ違う温度を持ち始める。その変化は、大きな革命というより、よく見ると分かる質感の更新になるのではないかと思います。
MOODでは、そうした“分かる人には分かる変化”を丁寧に見ていきたいです。CHANELがこれから何を残し、何をほどき、何を新しく編み直すのか。その動きは、これからのラグジュアリー全体を読むうえでも、かなり重要なヒントになるはずです。